2015年10月20日
「新スター・ウォーズ」に関する一論考
公開が12月に迫り、新たな予告編も公開されて盛り上がってる「スター・ウォーズ フォースの覚醒」ですが、一SWファンによるアンチ記事です。
結論から言うと、「私は既存のスピンオフを無視して製作された同作品を、映画としては認めるけれど、スター・ウォーズ・サーガの一環としては認められないだろう」というお話です。
以下では、スター・ウォーズに関する持論を長々と展開しますので、よほどお暇な方以外にはオススメしません。
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結論から言うと、「私は既存のスピンオフを無視して製作された同作品を、映画としては認めるけれど、スター・ウォーズ・サーガの一環としては認められないだろう」というお話です。
以下では、スター・ウォーズに関する持論を長々と展開しますので、よほどお暇な方以外にはオススメしません。
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●そもそも、なぜおまえはいきなりSW話を始めるのか?
過去に何度か触れていますが、私はスター・ウォーズのファンの一人です。
今はだいぶ落ち着いていますが、元をたどれば小学生の頃に読んだエピソード4の小説版に出てきた「機動歩兵」「理力」「X型翼宇宙戦闘艇」(日本語への焼き直しの素晴らしさという意味では旧訳版こそ聖典)といったワードに心をガッチリつかまれ、中学時代特有の謎のエネルギーを「スター・ウォーズの鉄人」の各スレッドでの果ての無いフォース討論に投じ、本棚をSWスピンオフで埋めることだけを楽しみにしていたという大変不健康な来歴のSWファンです。
一口にSWファンと言っても、映画ファンやグッズ集め、コスプレイヤーなどなど、その楽しみ方は様々ですし、それぞれの哲学があるだろうと思います。そんな中で、私にとってのSWの魅力は「緻密に構築されたSW世界観そのもの」です。
一方で、今後ディズニーによって製作される新SWでは、スピンオフを基本的に無視する旨が明言されています。
私自身SWファンとして新作を楽しみたいですし、この点について自分なりに折り合いをつけようといろいろ考えてみたのですが、どうもうまくいきそうにありません。その「いろいろ考えてみた」をちょっとまとめてみようと思い立った次第です。
●SWにおける映画とスピンオフの関係性
一般に、スピンオフというのは本編のおまけ的なものであり、それが有っても無くても本編には影響しません。この一般論からすれば、SW本編の続編である映画が製作されるにあたって、必ずしもスピンオフを気にする必要はないじゃない?ということになるでしょう。
しかしながら私個人の意見としては、他の作品ならともかくSWにおいてこの論理を適用するのは非常にまずいと思っています。
その理由は「既存のSWの世界観があまりにも強くスピンオフに依存していること」にあります。
1977年に最初の作品が公開されて以降、SWが映画で表現しきれなかった世界観を補完する試みは、基本的にアメコミやラノベというスピンオフの形でおこなわれてきました。今でこそ二次創作と言えば日本のオタク文化の代名詞ですが、その元祖ともよべるのがSWのスピンオフなわけです。
特に、エピソード6以降にルーカスアーツ公認の形で出版されたスピンオフ作品は基本的にSW正史扱いであり、数百人のSWファン作家によって、SW世界においてEP6以降に起きた様々な物語が書かれてきました。これらのスピンオフは互いに矛盾しないよう最大限の注意を払った上で、各作家が銀河スケールの自由度を存分に活かしてSWサーガに新たな章を加えてきたものです。その過程でSWの世界観はより洗練され、より緻密に構築されてきたと言えます。
つまり、SWという世界観の構築にあたって、映画はあくまでただのきっかけにすぎず、その世界観構築の大部分は(原作者たるルーカスの意向もありますが)スピンオフとファンによる考察がもたらしたというのが私の持論です。
●新SWの異質性
これらのスピンオフ作品を無視しての新SWは、これまでに練り上げられてきたSW世界観の根底を覆すことになりかねません。そうなると、この40年間に綴られ構築されてきたSWサーガはいったい何だったのか?という問いに直面せざるを得ないわけです。
「そんなことは知らん。なんであれ映画こそ正史である。」とすっぱり考えることもできますが、私には今のSWサーガを捨てることは到底できません。私にとってのSWはSWサーガそのものであり、それに矛盾するようなSWはもはやSWでは無いです。
すごく大雑把なたとえなのですが、東方プロジェクトの作者がZUN氏から別の人物に代わり、「風神録以降の作品は無かったことにする。こっちが正史」という形で新作を提示されたら、受け入れられない人も多いんじゃないでしょうか? 風神組や地霊組や星蓮組は?それらを題材にした同人はどうなる?
私にとって、新SWはそれに等しい問題なわけです。
新SWが、あくまでSWスピンオフの一環であるという形であったなら、私も素直に楽しめただろうと思います。
まだストーリーが公開になったわけではないので早計かもしれませんが、私にとって新SWは「SWを土台にした別の映画」として見ることになる可能性が高いのかな…と思っています。
過去に何度か触れていますが、私はスター・ウォーズのファンの一人です。
今はだいぶ落ち着いていますが、元をたどれば小学生の頃に読んだエピソード4の小説版に出てきた「機動歩兵」「理力」「X型翼宇宙戦闘艇」(日本語への焼き直しの素晴らしさという意味では旧訳版こそ聖典)といったワードに心をガッチリつかまれ、中学時代特有の謎のエネルギーを「スター・ウォーズの鉄人」の各スレッドでの果ての無いフォース討論に投じ、本棚をSWスピンオフで埋めることだけを楽しみにしていたという大変不健康な来歴のSWファンです。
一口にSWファンと言っても、映画ファンやグッズ集め、コスプレイヤーなどなど、その楽しみ方は様々ですし、それぞれの哲学があるだろうと思います。そんな中で、私にとってのSWの魅力は「緻密に構築されたSW世界観そのもの」です。
一方で、今後ディズニーによって製作される新SWでは、スピンオフを基本的に無視する旨が明言されています。
私自身SWファンとして新作を楽しみたいですし、この点について自分なりに折り合いをつけようといろいろ考えてみたのですが、どうもうまくいきそうにありません。その「いろいろ考えてみた」をちょっとまとめてみようと思い立った次第です。
●SWにおける映画とスピンオフの関係性
一般に、スピンオフというのは本編のおまけ的なものであり、それが有っても無くても本編には影響しません。この一般論からすれば、SW本編の続編である映画が製作されるにあたって、必ずしもスピンオフを気にする必要はないじゃない?ということになるでしょう。
しかしながら私個人の意見としては、他の作品ならともかくSWにおいてこの論理を適用するのは非常にまずいと思っています。
その理由は「既存のSWの世界観があまりにも強くスピンオフに依存していること」にあります。
1977年に最初の作品が公開されて以降、SWが映画で表現しきれなかった世界観を補完する試みは、基本的にアメコミやラノベというスピンオフの形でおこなわれてきました。今でこそ二次創作と言えば日本のオタク文化の代名詞ですが、その元祖ともよべるのがSWのスピンオフなわけです。
特に、エピソード6以降にルーカスアーツ公認の形で出版されたスピンオフ作品は基本的にSW正史扱いであり、数百人のSWファン作家によって、SW世界においてEP6以降に起きた様々な物語が書かれてきました。これらのスピンオフは互いに矛盾しないよう最大限の注意を払った上で、各作家が銀河スケールの自由度を存分に活かしてSWサーガに新たな章を加えてきたものです。その過程でSWの世界観はより洗練され、より緻密に構築されてきたと言えます。
つまり、SWという世界観の構築にあたって、映画はあくまでただのきっかけにすぎず、その世界観構築の大部分は(原作者たるルーカスの意向もありますが)スピンオフとファンによる考察がもたらしたというのが私の持論です。
●新SWの異質性
これらのスピンオフ作品を無視しての新SWは、これまでに練り上げられてきたSW世界観の根底を覆すことになりかねません。そうなると、この40年間に綴られ構築されてきたSWサーガはいったい何だったのか?という問いに直面せざるを得ないわけです。
「そんなことは知らん。なんであれ映画こそ正史である。」とすっぱり考えることもできますが、私には今のSWサーガを捨てることは到底できません。私にとってのSWはSWサーガそのものであり、それに矛盾するようなSWはもはやSWでは無いです。
すごく大雑把なたとえなのですが、東方プロジェクトの作者がZUN氏から別の人物に代わり、「風神録以降の作品は無かったことにする。こっちが正史」という形で新作を提示されたら、受け入れられない人も多いんじゃないでしょうか? 風神組や地霊組や星蓮組は?それらを題材にした同人はどうなる?
私にとって、新SWはそれに等しい問題なわけです。
新SWが、あくまでSWスピンオフの一環であるという形であったなら、私も素直に楽しめただろうと思います。
まだストーリーが公開になったわけではないので早計かもしれませんが、私にとって新SWは「SWを土台にした別の映画」として見ることになる可能性が高いのかな…と思っています。